先日45歳になった。4歳の次男がママいくつ?と聞くので左右の指で4と5を作って見せたら「9?にぃにと同じ?」と聞かれた。
むむ、、私の年齢はもはや両手、両足を使っても足りない。困ったので両手をパーに広げて「これが10でしょう?」と見せつつ、その手を4回前に振って「この10のかたまりが4つと、さらに5!」と見せてみた。
息子は、想像をはるかにこえる指の束に圧倒されたようで、何も言わずにその目を遊んでいたレゴにそっと戻した。
また昨夜も、次男が13歳の姉のことを「ねぇねは若いからねー」と言ったのがおかしくて家族で笑い、いたずらに「ママは?」と聞いてみた。一瞬にして家族の耳の集中力があがり、その圧を感じた4歳の息子は「ママ?ママは、、、」と言い淀み、「ママも若いよ」と早口で言いきる前にグフッと吹き出してしまった。「気を遣ったのね?」と言うと、一同また大笑い。我が家の日常の一コマである。
こういった私の年齢、容姿の衰えに関する自虐ネタは自ら率先して行い、いつも怒ってばかりの母を子供たちが笑えることで我が家の潤滑油にはなっている。(夫は軽々にこの罠にかからず、いつも賢明に立ち回っているが)
しかし、ここで反省。「ママは若い?」などと聞くべきではなかったのだ。
「私のこと好き?」とパートナーに聞くのと同じ。ちなみにこの「好き?」という質問は、世の中にある愚問の中の最たるものだと思う。
自惚れであればバカバカしく、疑心であれば哀れだ。相手にとっての自分の価値は、その行動に現れているのだから、自分が何よりよく分かっている。それに、重要なのは〈自分〉が〈相手〉を好きかどうか、その一点のみであるとも思う。
自分の容姿だってそう。鏡で見ている自分が全てであり、他の人にそれを評価してもらっても意味がない。そもそも、こうした質問に対する相手の答えが本心である可能性はとても低い。4歳の子どもですら心にないことを言ってしまうのだから!!
若さこそが美しいとの前提で話を進めていること自体、過ちなのかもしれない。
若さとは単に比較の形容詞であり、そこに 若い=美しい、とか 若い=良い、とかの価値をつけてはいけないのだ。
100歳と比べては若いが20歳と比べては若くはない、それだけである。
現に私自身、年齢や容姿といったことの呪縛はあまりないほうだと思って生きてきた。
故に美容もおしゃれもかなり怠ってきてしまったが、ここへ来て、想像を超える加齢という重みに驚いている。
少し前に実写化された映画『白雪姫と鏡の女王(原題はMirror,Mirror)』では、ジュリア=ロバーツ演じる継母である女王が若き王子を口説きおとそうと、痛みや気持ち悪さを我慢して過酷なエステに励む姿がコミカルに描かれている。結局のところ、魔術の力を借りることになるのだが。
そんないじらしい一面を見てしまうと、女王が鏡に脅しをかけるように「鏡よ、鏡」と問う姿に、共感を覚えずにはいられない。昨日より若さが損なわれているのではないか、と恐れているのだとしたら、私も同じだからだ。
でも、彼女はひとつの教訓を与えてくれもした。
彼女の過ちは「世界で一番美しいのは?」と問い続けたことにある。一番でありたい、誰かと比べた相対的な評価を求めてしまっていたからである。昨日と比べてもいけない。彼女は「今日、私は美しいか」と問うべきだったのだ。いや、鏡に問わずに「今日の自分も好きだ!」と宣言すべきだったのだ。
と、そんなことを思いつつ、私も毎夜鏡を見ながら〈潤いたっぷり〉とうたう美容液を塗り込むのであった。どうか、呪いから解放されますように、、ありのままの自分を好きになれますように、、と。