コロナ禍での生活が一年経ち、周りを見渡してみると、新しい生活スタイルを確立した人、働き方を変えた人、考え方を変えた人・・・さて、何にも変わらずいると言える人はどれくらいるのだろう。
ちょっと前まで、久しぶりに会えば、「変わらないねー〇〇ちゃん」
この良くも悪くもあいさつ代わりに使っていた常套句も、もはや使うのが難しくなるのかもしれない。
ずっと港区生活を謳歌してきた先輩が子育てに良い環境をと、自然豊かな開放感あふれる場所にあっさり移住を決めた。
最新のファッションに身を飾り、エネルギーを注入して自分らしさを体現していた友人もその考えに疑問をもつようになった。
わたしはというと、大人数の夜の集いはいつだったか・・・、少人数でもランチへシフト、ディナーは自炊にほぼ切り替わった。食べログチェックや有名フーディーのインスタからの情報収集は未だ寝る前の日課であるが、このままだと縁遠くなる日もくるのかもしれない。
長期的な目標設定もコロナ禍では見通しが立たない。
ならばいっそのこと「短期的、直感的、とりあえず今良ければどうにかなるさ」で長年生きてきた自分の無計画さを肯定してしまおう。ちょっとだけ大胆になってみる。
多くの人が選択した大なり小なりの変化。今いる場所を変え、関心の対象が変わり、考え方が変わる。
「変化」というとなんだか覚悟が必要で大袈裟な決断のように聞こえるけれど、わたしの周りで起きていることは、もっとシンプルで、肯定的な何か。今いる場所と地続きのどこかに、しなやかに移っていくことなのではないかと思う。
「3月のことば」に「移る」を選んだのは、コロナ禍で「今まで通りにはいかない」、「これがニューノーマルだ」と私たちがなかば強制され、息苦しく感じる時すらある「変化」をこう表現する方が、しっくりきたからだ。
今多くの人が実行している考え方や価値観、趣味嗜好などの変化を、”気軽なお引越し”のように捉え、日常生活の延長線上にあるものとしてシンプルに考えてみてはどうだろうか。
そうすれば変化が苦手な人も、少しハードルが下がり気ままに挑戦できるのかもしれない。
「移る」こと。
今ある「わたし」を前に後ろに右に左に、もっと自由に気ままに揺さぶって、心地よいところに移ってみたい。