いつ頃からそう思うようになったのかは、よく覚えていないのだけど
僕は「始まるとき」から「終わり」を考えるような生き方を続けてきた。

 

始まってしまったものには、必ず終わりが来る。
終わりが来ると、寂しさよりも期待の方がそれを上回る。

なぜなら、始まりをまた始められるからだ。

 

長く続くことは「申し訳ないこと」と、言葉を置き換え、自分への理解を促すことも少なくない。

「わたし」がそこに居座ることで、誰かの居場所を奪うことになると思っている。

 

勝手なことを言って!

 

と、苦々しくこの文章を読んでいる人が、
世界のどこかにいることを僕は告白しておかなくてはいけない。

僕のわがままなこうした生き方のせいで産み落とされた
ある種の「業(ごう)」は
決していつか霧のように晴れる
清々しさのあるものでもないことを、認識しているつもりだ。

 

ただ、始まりの先の終わりを意識することで、
僕は、僕が見てみたい未来を手に入れるための永久機関を
心の内側に取り込んで生きることができた。

 

どんな逆境でさえ、僕には平穏な日常の一コマとして穏やかに眺められる、
そんな前向きさを自分の強みにすることができたらだ。

 

でも、最近、そんな自分のことが、嫌いだ。

 

友人に僕の生き方を説明したときに
その友人はとても寂しそうな顔でこう言っていた。

 

堀さんは、子供の頃から転校が多かったから
そう思うのかなって実はずっと思ってた。
きっと僕との付き合いもいつか終わるんだろうなって。
残念な気持ちもあったけど、まぁいいかって。

 

彼の表情は僕が抱いている「砂漠のような孤独感」をそのまま移しとったようにさらさらとしていた。

涙が流れたとしても、その跡がすぐに消えてしまいそうな乾いた頬の色をしていた。

 

それから、少し僕は考えが変わった。

 

始まらなくてもいい。

 

いつまで経ってもそこに佇んで足元を見つめてみたい。

 

始まりは幻想で、麻薬のようなもの。
終わりだと思っていたのも幻想で、僕はそこからただ立ち去っただけ。

 

立ち去ったんだ。

 

もう逃げるのはやめようと思う。

だから、「つづく。」があるなら、見てみたい。

 

 

堀潤 Jun Hori
わたしをことばにする研究所 副所長/ジャーナリスト
1977年神戸市生まれ。0型。蟹座。人見知り。学生時代にメディアを研究、その後NHKに入局し、現在はフリーランスのジャーナリスト。「ことば」と「映像」を使った発信が専門で、ドキュメンタリー映画も制作。アフリカ、中東、アジア、欧米、世界各国を訪ね、そこを生きる人々にそれぞれの「幸せ」を聞くインタビューも。「大きな主語」よりも「小さな主語」を大切にことばを伝えている。