今年の関東甲信の梅雨入りは平年より1週間遅い。ここ10年で一番遅い梅雨入りになったという。
どおりで、傘の出番が少ないわけだ。
雨の日に出かけるとなると、その日のファッションを雨仕様で考える。泥跳ねして汚れても大丈夫なもの、濡れても色落ちしないものなど選ぶのにいつもより少し余裕を持って準備しなくてはいけない。靴には更に気を使うし、バッグも革製のものはなるべくなら避けたい。
髪がまとまらなくて気分がのらない時も、低気圧で体調が優れない時もある。楽しみにしていたイベントさえも、出かけることが億劫になってしまうことすらある。
時間を前倒して計算しながら動くのに、心の余裕がなくなってしまうのだ。
それでも、私は雨が嫌いではない。
雨粒が木々に降り注ぎ、シトシトと葉を打つ音は心地がよい。緑が濡れて色鮮やかになり、街の音が少し静かになる。
そしてこの時期、至る所で見かける紫陽花。
街路樹の根元に、近所の誰かが植えたであろう色とりどりの紫陽花が、生き生きと咲いているのを眺めながら歩くのは、憂鬱だった気分をパッと明るくしてくれる。
紫陽花の色を見れば土壌の酸性度が分かると聞いて以来、普段は気にならない土壌の性質を想像しながら歩くのも楽しい。
ちなみに、日本は火山大国なので、酸性の土壌が圧倒的に多く、青色の紫陽花が多いのだそう。
だから、私は雨の日は、楽しむつもりで外に出る。
季節の花を愛でながら歩くのは、とても豊かな気持ちになる。見慣れた風景でさえも、心の持ちようで美しいと思えるのは、こうした変化に気づける余裕をつくってこそなのだ。
以前1週間ほど入院したことがある。
暇な時間を持て余してはいけないと、Netflixや雑誌、美容グッズなどいろんなものを持ち込んでみたものの、身体も心も想定外の余裕のなさに、退院するまでそれらで楽しむことはできなかった。
初めての感覚だった。
映画は、映像と音、場合によっては字幕もあると、一度に受けるその情報量はかなり大きい。
何時間でも海外ドラマをいっきに見られる耐久力もこの時ばかりは歯が立たなかった。
できるだけ刺激を受けたくないと、無音の生活を試みた。
ほんの少し回復してきたときに、唯一助けになったのが音楽。
目をつぶって、他の情報は何も入れずに音だけを受け入れる。楽しむにはまだ程遠かったが、その時の私にはとてもありがたい癒しになった。
私の体のどこかにほんの少しの余裕ができたのだろう。
小さな小さな隙間に入り込める情報は、音だけだったのだと振り返って思う。
心に潤いを与えてくれるものは、誰もが望むものだ。
それは雨の中の紫陽花であったり、入院中の音楽であったり。
私の中に余白ができた時に、スッと心に入ってくる。
じんわり、じんわり沁み入って、豊かな気持ちにさせてくれる。
そして同時にその潤いを保つ受け皿も必要だ。でないと、一瞬にして潤いが蒸発してしまう。
美しい花にきちんと手入れをして水を吸い上げる力を保たせてあげるように、私たち人間にも潤いをとどめておける体力が必要なのだ。
「潤す」こと。
日々の喜び、幸せに気づくための余裕をつくる。受け皿の手入れも丁寧に、そして念入りに。